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令和6年能登半島地震から1年

~震災復興にどう取り組んできたのか~

2024年1月1日16時10分、石川県能登地方でマグニチュード7.6の地震が発生、輪島市と志賀町(しかまち)で震度7を観測したほか、北陸地方の広い範囲で強い揺れを観測し、土砂崩れ・河川の閉塞・道路崩壊・海岸部における隆起などによりインフラへの甚大な被害が発生しました。パシフィックコンサルタンツでは発災直後からさまざまな復旧・復興支援活動に取り組み、現在も継続中です。現地で支援活動の先頭に立った能登復興技術事務所長の森野善広と現地を所管する北陸支社長の林勝義に、地震発生からの1年を振り返ってもらいました。

INDEX

発災直後からの迅速な支援

――元日早々の地震発生で本当に驚かされました。当日はどうしていたのですか。

林:私は富山県の西部にある砺波市が実家で、発生当時は実家に帰省していました。今まで北陸では経験したことがないような揺れ方で、幸い実家は大丈夫でしたがテレビを付けると輪島などの被災の様子が流れてきて、これは大変だと思いました。北陸支社長として新潟・富山・石川の3県を担当しているので、従業員の安否確認や支社や営業所の状況を確認して本社に報告し、同時に、現地の県や市町村の状況把握に努め現地と本社の間をつなぎました。

――支援の要請もすぐに入ったのですか。

林:当社はさまざまな協会や団体に所属していることもあり、1月4日~6日にかけて、廃棄物処理関係の協会からの現地自治体への支援、地盤分野関係の協会から被害状況調査団への参加依頼、ドローンを活用したインフラ施設の現況調査への協力依頼など、各団体からの支援要請に関する連絡が続々と入りました。
地震発生を受け、会社としても災害対応のための組織を本社と現地事務所にそれぞれ設置し、情報共有と被災地域で活動する社員のサポート体制を整えました。

――インフラ関係も早い時点で動き出すのですね。

林:もちろん発災直後は警察や消防、自衛隊の方などによる人命救助、行方不明者の捜索が第一ですが、インフラ施設の被災状況の把握や、それをふまえた早期復旧にむけた対応も非常に重要です。平時では、何かあればインフラの管理者である自治体等が確認・対応を行いますが、大規模災害発生時には、自治体等は住民の安否確認や避難所の開設、医療・福祉施設の状況把握、支援物資の受け入れなどで手一杯だったり、被災箇所数の状況把握にもマンパワーが足りない、という状況になります。そのため、災害時支援協定等を締結している協会や団体等が加盟会社と調整しながら応援態勢を敷くことになります。
私は、仕事の拠点は新潟ですが、発災以降の初動対応時はほとんど富山の現地対策本部にいました。2月~3月は本社からの指示や応援も受けながら、通常業務と災害関連対応を並行して進め、年度末の繁忙期を乗り越えました。この時期が一番大変だったかもしれません。

――森野さんも早い段階で現地に行かれたのですね。

森野:地震発生当日、私は大阪にいました。大阪でも震度3から4の揺れを観測していて、長い時間揺れていたことからかなり大きい地震が発生したと感じました。1月16日に国等が関連する現地調査団への参加要請が本社にあり、私は地質系の技術者として参加しました。国道249号の土砂崩落箇所を専門家の視点で詳しく調査するのが目的です。1月18日に現地に行ったのですが、道路はあちこちで波打っていたり、電柱も傾いて電線が垂れ下がっているなど、道路状況は非常に悪く、集合場所の金沢から現地まで往復8時間以上かかりました。現地では倒れたままの家も多く、これは大変な災害だと改めて感じたことを覚えています。

写真:珠洲市の土砂崩れの様子(2024年12月現在)
珠洲市の土砂崩れの様子(2024年12月現在)

断層が動き海底が隆起した能登半島地震

――災害対応で苦労したのはどんなところですか。

林:現地がどのような状況なのかという情報把握と、社内の誰に・いつ・どんな相談がきたか、どう対応したか等についての整理でしょうか。支援要請や問い合わせがあった場合、対応方針を会社として確認し、実施するわけですが、そのとりまとめが重要であり、大変でした。また、実際に対応するとなった際には、当社の技術者が大勢現地に入ることになるため、皆さんの仕事場や宿泊場所などの環境も整えなければなりません。事務所の場所探しから賃貸契約などいろいろな業務が集中し、あっという間に1日が過ぎていく感じでした。

――支援はどの分野で行ったのですか。

林:主要なものは道路、港湾、液状化への対応ですね。特に道路については国道249号の珠洲-輪島沿岸部約53kmの復旧にむけて、支援要請のなかで当社も1工区を担当することになりました。2024年内に応急復旧を完了することが目標で、これが最も大きなプロジェクトです。2月に、道路分野を中心に地盤、構造、トンネル、港湾などの技術者など、総勢32人に上る調査団が結成され、国道249号の復旧にむけた調査を3日間かけて実施しました。その結果を全員で検討し、応急復旧と本復旧の方針を決め、3月から業務に入りました。年内復旧の目標達成のためには、早々に復旧計画をまとめて工事を始めなければなりません。時間との戦いもありました。

森野:しかも今回の地震の特徴もあって、復旧計画は簡単ではないんです。

――どんな特徴ですか?

森野:震源地は内陸部ですが、断層がずれて海底が大きく動きました。そのため、通常は内陸部の地震では起こらない津波も発生しました。強い揺れによる建物の倒壊や山腹崩壊に加え、盛土の崩壊、地盤の液状化や隆起、さらに津波など、活断層地震に伴うありとあらゆる被害がすべて起こっています。輪島の海岸の隆起は4mにも達するもので、それまで海の中だった岩盤や人工構造物がせり上がって海岸が広がり、まったく景色が変わってしまいました。古い地層の研究から、それまでも何回か大規模な隆起が起きていることはわかっていたのですが、おそらく数千年に1度というような現象が今回起き、それを我々は目の当たりにしているということです。そのため道路も港も住宅地も、復旧にはすべて地盤の検討が欠かせなかったですね。

林:道路においては、単に崩れてきた土砂を重機で取り除けば終わりというわけではありません。地盤や、隣接する法面はどうなのか、再び崩れてくることはないのか、復旧の段階も見据えて安全性の確保はどう考えるか等、大きく隆起しているところもあったので、復旧に向けたスピード感とさまざまな影響要因を踏まえた対応が必要でした。

写真:珠洲市の海岸隆起の様子(2024年12月現在)
珠洲市の海岸隆起の様子(2024年12月現在)

――パシフィックコンサルタンツでは5月に能登復興技術事務所を開いて森野さんが所長をされていますが、そういう背景があるのですね。

森野:4月に能登復興技術事務所を富山市内に設置するから所長をやってほしいと打診され、当初は自分にできるかと戸惑いがありました。今回の震災復興プロジェクトでは、道路・トンネル・港湾・砂防、さらに液状化対応など、多分野のチームが業務を担っていたことから全体をまとめていくのは簡単ではありません。しかし「今回の復旧・復興のキーは地盤だ。はじめから森野しかいないと思っていた。」と言われ、地盤技術者として自分のできることを精一杯やって頑張ろうと決心がつきました。実際今回は、壊れた港の一部を直すとか、道路の亀裂や陥没を補修するという単純な工事はひとつもありませんでした。

予想もしなかった豪雨災害の追い打ち

――能登半島地震から1年が経ちました。現地の状況をどう見ていますか?

森野:少しずつではありますが、復旧復興が進んでいるように感じます。地震から半年後の7月から9月にかけては、開催が危ぶまれていた能登のあばれ祭(日本遺産)も例年通り行われました。震災があったからこそ負けないようにやりたいという地元の熱意の賜物だったと思います。ただ、9月の豪雨災害は予想もしていなかったので辛かったですね。
9月21日から22日にかけての24時間で400ミリを超える記録的な豪雨となり、大きな被害が出ました。復旧を急ピッチで進めていた国道249号も土砂の流出や土砂崩れで5カ所が通行不能になるなど再度の被災が発生したことで、復興に向けて懸命に歩んでいた地元住民や工事関係者の方からも悲痛な声をさまざまお聞きしました。

――当日はどうしていたのですか?

森野:前日に線状降水帯が発生しそうだというニュースがあったので、富山で待機していました。すると朝の8時頃に国道249号の地すべり観測器からアラートが出たので、現場を見に行くために車で出発しました。ところが途中で土砂崩れがあったり河川の氾濫によって流木が道路を塞いでいたりしていて、今まで通れたところも不通になっているんです。現場に辿り着くのも容易ではなく、これまでの頑張りは何だったんだろうという気持ちになりました。

林:あのときは本当に辛かったですね。でも私たちが立ち止まってしまったら何も前に進みません。とにかくやるしかないと、改めて気持ちを入れ直しました。

写真:左から森野、林
左から森野、林

石川県の掲げる「創造的復興」に貢献したい

――豪雨災害があっても、復旧・復興の目標期限は変わっていませんね。

林:国道249号における復旧目標は変わっていません。国道249号は能登半島の海岸線をなぞりながら奥能登6市町をつなぎ、金沢市に至る重要な道路です。地域における生活道路としての役割のほか、海を見ながら気持ち良くドライブできる観光道路でもあり、地元のみなさんの期待も大きなものがあると思っています。この点で私たちだけでなく、他の工区で工事に当たっている建設コンサルタントや施工会社、国や自治体など関係する全員が1つの目標に向かって一体的に進んでいます。

森野:こういう現場はなかなかありません。私たちが何のため存在するのか、その意味を改めて考えさせてくれる場所でもあります。当面の私たちの課題は国道249号の復旧を含め、かほく市・内灘町の液状化対策、七尾港の港湾施設の復旧、県管理の道路、港湾施設、砂防関連等の災害査定対応や災害廃棄物処理関連などですが、今回の震災はその後に豪雨災害まで加わった複合災害になりました。だからこそ道路、トンネル、橋梁、港湾、地盤、砂防、廃棄物、そして都市・地方計画など、あらゆる技術分野を持っているパシフィックコンサルタンツは、今後もさまざまな復旧復興のフェーズに合わせた貢献ができると思っています。被災地域においてはそれぞれ復旧復興にむけたプランが公表・検討されているので、それらを成し遂げるための力になりたいと思っています。

林:今後は災害にも対応できるまちづくり、生業の再建や賑わいの創出などの取り組みが進んでいくと思います。パシフィックコンサルタンツのこれまでの災害対応の実績を踏まえて復旧復興に貢献していきたいと思います。

森野 善広

MORINO Yoshihiro

国土基盤事業本部
能登復興技術事務所 所長

1990年入社。地質技術者として土木地質に始まり、水文環境保全、自然災害(深層崩壊、地震、津波)、クリーンエネルギー、地域資源を生かした観光(ジオパーク)などに取り組んできた。学会等では地生態学的視点からジオストーリーへの展開を目指しており、その一部を『変動帯の文化地質学』に執筆。技術士(応用理学部門、建設部門、環境部門)、1級ビオトープ管理士。

林 勝義

HAYASHI Katsuyoshi

北陸支社長

2011年入社。地域支社や事務所にて営業担当として従事。2022年から新潟・富山・石川県を所管する北陸支社長として地域課題の解決にむけた情報提供や提案活動を主導。情報処理技術者(第2種)、JABEE認定プログラム修了(情報)。

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